社長×会長トップ対談

Top management talks

ケービック株式会社は、1950年(昭和25年)3月設立、創業約70年の歴史を持つ精密板金加工の会社です。会長の竹中次雄は2010年(平成22年)に代表取締役に就任した3代目、そして2018年(平成30年)には竹中雄吾が4代目として代表取締役に就任しました。

今回、トップ2人に、これまでのケービックの歴史と、これからのケービックの未来について語ってもらいました。
会社が歩んできた歴史や経営者としての想い、精密板金事業への気構えを率直にご紹介することで、ケービックをご理解いただくきっかけとなりましたら幸いです。
≫会社沿革については会社概要でも年表形式でご紹介しています。

社長×会長トップ対談 竹中雄吾社長と竹中次雄会長

京都市で西陣織の繊維・染織機械などの製作・修理からスタート

トップ対談 会長の竹中次雄

会長 竹中次雄

トップ対談 代表取締役社長の竹中雄吾

社長 竹中雄吾

――ケービックは創業約70年の歴史がある会社です。創業から3代目の会長まで、その歴史について聞かせてください。

会長:当社は私の父・小林良雄が創業した会社です。長男(兄)が2代目、私が3代目、私の長男(息子)が4代目になります。
父は1人でコツコツと職人として仕事をしていたのですが、戦後の1950年(昭和25年)に、京都市上京区に機械設備制作の会社を立ち上げたのがはじまりです。当時は板金加工ではなく、繊維機械や木工旋盤などの機械設備の製作や修理を生業とする町の鍛冶屋のような小さな事業所でした。

――繊維機械の製作というと。

社長:土地柄もあるでしょうね。京都の西陣織の繊維機械も製作していたと聞いています。京都には染織工場も多かったので、染めの機械も製作していたそうです。

――当時の従業員数や現在の所在地へ移ったのはいつ頃ですか?

会長:私が入社したのは1966年(昭和41年)で、父と私を含めて従業員はわずか3人でした。私が入社後、業務拡張に伴って現在の滋賀県栗東市へ工場を移転し、昭和50年には「株式会社小林鉄工所」として法人化しました。

――現在の社名であるケービックは、「小林」のアルファベットの頭文字の「K」と、事業を大きくさせるという「Big」を組み合わせたのでしょうか!?

会長:父は1952年(昭和27年)から平成の直前まで、最後は名前だけでしたが、事業に携わっていました。長男(兄)は父から引き継いで30年ほど代表でした。私が代表取締役に就任したのは、その後、2010年(平成22年)になります。
社名を「ケービック」に改称したのは創立15周年の1990年(平成2年)のことです。小林鉄工所にちなんだ改称だとは思うのですが……。

社長:じつは現在の社名「ケービック」の命名の由来を、きちんと聞いていないんです。記録も特に残ってはいないので、たぶんそういうことだろう、と(笑)。

オムロン様とのお取引がきっかけとなった精密板金への進出

――会長が代表就任後は、どのような事業展開をされてきましたか?

会長:昔のことですから。仕事があったらうれしい、楽しい、という時代です。仕事の選別をしようという考えはまったくありませんでした。仕事のお話がきたら、それを引き受けさせてもらう。それが売上になるという姿勢です。

仕事を受けるには機械設備が必要ですが、私が20歳過ぎの頃、50年くらい前からぼちぼちと入れはじめました。一度にたくさんの設備を入れることはできませんから、少しずつです。
「次はこの機械が欲しい」、「こういう仕事が増えてきたから、この機械を入れよう」という具合に拡充していきました。

――精密板金加工をするようになったのは、いつ頃からでしょうか?

会長:当社が板金加工を手がけるようになったのは1975年(昭和50年)過ぎくらいからです。いまも主要なお取引様のひとつであるオムロン様(本社・京都府京都市)とお取引させていただいたのが、きっかけとなりました。

当時、オムロン様が製品の製造に精密板金加工が必要で、それを引き受けてくれるところがなくて困っていました。当社ではその頃、たまたま精密板金の試作をやっていて、白羽の矢を立ててもらったのです。
いまでは考えられませんが「売買契約書」をオムロン様が持参して、「これで契約をお願いします」とご依頼いただいたんですよ。

――それくらい精密板金を引き受けてくれるところがなくて困っていたわけですね。

会長:それがきっかけで、以来、オムロン様にはとてもかわいがってもらいました。
もちろん、オムロン様のご要望に応えるため、当社もありとあらゆる努力をしました。難しい仕事、困っている仕事、納期の厳しい仕事……。それらを極力、引き受けさせてもらいました。それで、精密板金の仕事が増えていったわけです。

社長×会長トップ対談
超精密板金のケービックの設備イメージ図

オムロン様とのお取引がきっかけとなった精密板金への進出

社長×会長トップ対談
超精密板金のケービックの設備イメージ図

――会長が代表就任後は、どのような事業展開をされてきましたか?

会長:昔のことですから。仕事があったらうれしい、楽しい、という時代です。仕事の選別をしようという考えはまったくありませんでした。仕事のお話がきたら、それを引き受けさせてもらう。それが売上になるという姿勢です。

仕事を受けるには機械設備が必要ですが、私が20歳過ぎの頃、50年くらい前からぼちぼちと入れはじめました。一度にたくさんの設備を入れることはできませんから、少しずつです。
「次はこの機械が欲しい」、「こういう仕事が増えてきたから、この機械を入れよう」という具合に拡充していきました。

――精密板金加工をするようになったのは、いつ頃からでしょうか?

会長:当社が板金加工を手がけるようになったのは1975年(昭和50年)過ぎくらいからです。いまも主要なお取引様のひとつであるオムロン様(本社・京都府京都市)とお取引させていただいたのが、きっかけとなりました。

当時、オムロン様が製品の製造に精密板金加工が必要で、それを引き受けてくれるところがなくて困っていました。当社ではその頃、たまたま精密板金の試作をやっていて、白羽の矢を立ててもらったのです。
いまでは考えられませんが「売買契約書」をオムロン様が持参して、「これで契約をお願いします」とご依頼いただいたんですよ。

――それくらい精密板金を引き受けてくれるところがなくて困っていたわけですね。

会長:それがきっかけで、以来、オムロン様にはとてもかわいがってもらいました。
もちろん、オムロン様のご要望に応えるため、当社もありとあらゆる努力をしました。難しい仕事、困っている仕事、納期の厳しい仕事……。それらを極力、引き受けさせてもらいました。それで、精密板金の仕事が増えていったわけです。

初期のATMや自動改札機の開発にも精密板金で参与

超精密板金のケービック株式会社の前身小林鉄工所のコンテナ
ケービックの前身の小林鉄工所時代の写真

――当時のオムロン様の仕事はどのようなものでしたか?

会長:初期のATM(現金自動預け払い機)や、「PG」型という鉄道の自動改札機に必要な精密板金加工にかかわらせていただきました。
オムロン様が日本初の開発をした自動改札機は、木の葉が川を回転しながら流れる風景をヒントにしたというエピソードが、テレビ番組のドキュメンタリーでも取り上げられましたね。

※注釈:1967年(昭和42年)に現在の阪急電鉄・北千里駅にオムロン製(当時・立石電機)の自動改札機が設置された。

会長:自動改札機の開発1号機ではなく、正確な記憶ではありませんが2号機くらい……のタイミングでしょうか。他社さんが担当していた部品の精密板金加工に困っているところに入らせていただきました。
いま私は71歳で、オムロン様とは私が27歳のときからのお取引ですから、44年のお付き合いになります。

――精密板金加工は、その頃、主事業だったのでしょうか?

会長:いえ。精密板金専門ではなく、板金加工を何でもやってました。「ほねもん」といって、アングルや形鋼(かたこう)という材料・加工を用いて、溶接・組み立てをし、フレームや台を製造したりしていました。

当時は、板金加工から精密板金加工へと新しく変わっていった時代です。
精密板金は、それまでやっていた板金加工の設備や技術とは、やはり違います。試作板金をして、「もっと精度を出すために新しい機械がいるなぁ」とか、「もっとスピードを上げるためには別の新しい機械がいるなぁ」と、精密板金加工の取り組みはぼちぼちとしてはいましたが。設備や技術のシフトはだんだんと整えていきました。

――新しいチャレンジだったのですね。その頃は、板金加工の競合他社も多かったのでしょうか?

会長:板金屋さんは多かったですね。昭和50年頃以降は、板金屋さんがものすごく増加していったように記憶しています。いまは淘汰されて数も減っていると思いますが……。

社長:地域柄も背景にあるように思います。京都は繊細な加工が必要な製品を扱うメーカー様が多く、そこで会社を発展させて行こうとすると、市場が求める精密板金加工への進出は必然だったはずです。
当社はその頃、京都の出水という地域に会社があったのですが、時代変化に合わせて拡張のために栗東へ工場を建設したのもその頃のことです。

会長:栗東に移転したのが1966年(昭和41年)です。50坪ほどの工場を建てて、本社を出水に置きながら工場へは京都から通っていました。

失敗の経験も資産に……絶えることのない「挑戦する精神」

――ケービックが精密板金加工へ進出した頃、精密板金は珍しいものだったのですか?

会長:そうですね。専門の機械自体も存在しておらず、精密板金専門という会社は非常に少なかったです。
いまの機械はタレパンやレーザーが主体ですが、その前は簡易型の「ユニパンチ」という機械がありました。当社でその機械を購入した当時は、工場にたくさん見学にいらっしゃいました。それくらい珍しかったということです。

購入したのは2代目の社長ですが、いまでも思い出します。
「ユニパンチ」は当時としては斬新な最新鋭の機械で750万円しました。土地と建物で30坪くらいの家が150万円くらいだった時代です。創業者の父と、兄弟でお金を出し合って購入しました。

――一世一代の大勝負ですね。

会長:機械を買ったからといって仕事が増えるわけではないですが、そのときは「ユニパンチ」のお陰で仕事が増えましたね。
次に購入したのが、加工作業がオート化した「タレットパンチプレス」です。購入当時としては、これもまた珍しい機械で、また工場見学にたくさんの方々が訪れました。

社長:当社は昔から機械はたくさん買ってきたのではないでしょうか(笑)。もう処分してしまった機械がほとんどですが、その時代ごとの最新鋭の機械を購入している点では先進的な会社だと感じています。
私が代表就任後も、製品の高品質と作業効率化を両立させるため、最新の全自動レーザ・パンチ複合機を購入しています。

――失敗した機械もあるのでしょうか?

会長:あります。相当あります。経営者1人で高額な設備投資を決めるのは、いまの事業経営の考え方からはあまりない思いますが、おおらかな時代がありましたから。当社の歴史を正直に振り返ってみると、そうした失敗もたくさん経験しています。

――失敗する機械とはどういうものですか?

社長:ひとことで言うと利用価値が生まれない機械です。例えば、市場の需要はあるけれど、機械が先進的すぎてうまく扱えない機械というのがあります。稼働させてもすぐに止まってしまうとか、動いたとしてもメンテナンスや調整が非常にシビアな場合は、生産自体、うまくいかないんです。

――そうした「挑戦」を経て、いまのケービックがあるのですね。

会長:機械の失敗はありますが、それぞれ当時の代表が「これでいこう」と考え抜いて挑戦したこと。精密板金業界へ進出したという大きな方向性は、間違っていなかったですね。

社長:私も事業発展のために、創業から受け継がれてきた「挑戦する精神」を大切にしていきたいと思っています。

ケービックの前身の小林鉄工所時代の写真
超精密板金のケービックの設備

失敗の経験も資産に……絶えることのない「挑戦する精神」

ケービックの前身の小林鉄工所時代の写真
超精密板金のケービックの設備

――ケービックが精密板金加工へ進出した頃、精密板金は珍しいものだったのですか?

会長:そうですね。専門の機械自体も存在しておらず、精密板金専門という会社は非常に少なかったです。
いまの機械はタレパンやレーザーが主体ですが、その前は簡易型の「ユニパンチ」という機械がありました。当社でその機械を購入した当時は、工場にたくさん見学にいらっしゃいました。それくらい珍しかったということです。

購入したのは2代目の社長ですが、いまでも思い出します。
「ユニパンチ」は当時としては斬新な最新鋭の機械で750万円しました。土地と建物で30坪くらいの家が150万円くらいだった時代です。創業者の父と、兄弟でお金を出し合って購入しました。

――一世一代の大勝負ですね。

会長:機械を買ったからといって仕事が増えるわけではないですが、そのときは「ユニパンチ」のお陰で仕事が増えましたね。
次に購入したのが、加工作業がオート化した「タレットパンチプレス」です。購入当時としては、これもまた珍しい機械で、また工場見学にたくさんの方々が訪れました。

社長:当社は昔から機械はたくさん買ってきたのではないでしょうか(笑)。もう処分してしまった機械がほとんどですが、その時代ごとの最新鋭の機械を購入している点では先進的な会社だと感じています。
私が代表就任後も、製品の高品質と作業効率化を両立させるため、最新の全自動レーザ・パンチ複合機を購入しています。

――失敗した機械もあるのでしょうか?

会長:あります。相当あります。経営者1人で高額な設備投資を決めるのは、いまの事業経営の考え方からはあまりない思いますが、おおらかな時代がありましたから。当社の歴史を正直に振り返ってみると、そうした失敗もたくさん経験しています。

――失敗する機械とはどういうものですか?

社長:ひとことで言うと利用価値が生まれない機械です。例えば、市場の需要はあるけれど、機械が先進的すぎてうまく扱えない機械というのがあります。稼働させてもすぐに止まってしまうとか、動いたとしてもメンテナンスや調整が非常にシビアな場合は、生産自体、うまくいかないんです。

――そうした「挑戦」を経て、いまのケービックがあるのですね。

会長:機械の失敗はありますが、それぞれ当時の代表が「これでいこう」と考え抜いて挑戦したこと。精密板金業界へ進出したという大きな方向性は、間違っていなかったですね。

社長:私も事業発展のために、創業から受け継がれてきた「挑戦する精神」を大切にしていきたいと思っています。

作り方、売り方で価値を提供する、新しい精密板金の世界へ

社長×会長トップ対談
超精密板金のケービックの設備イメージ

――精密板金業界の市場をどのように捉えていますか?

会長:精密板金の仕事が無くなることはありません。ただ、分野に関しては、ATMや自動改札機、券売機をはじめ、医療や食品とさまざまありますが、対象分野がだんだんと少なくなっていくことは予測されます。
これまで当社がかかわって成長してきた分野は大事にしつつも、他の新しい分野にもチャレンジしていくべきでしょう。

社長:具体的な新分野が決まっているわけではありませんが、思い切って夢のある領域、宇宙産業やロボット産業など先進的な領域へ進出するのもありだと考えています。
例えば現在でも、アミューズメント分野のアーケードゲーム筐体の部品を製造しています。需要が増えている分野ということで、そこにも対応しているところです。

――これまでは製品をどのように加工していくのかを考えて製造する時代でしたが、今後は、新しい分野の開拓が求められる時代ですね。

社長:機械設備があれば対応できることがだいぶ増えてきて、技術的なことは機械でカバーできるという業界になりつつあります。
結局のところ板金加工は汎用性のある技術ですから、特殊なことや限定領域が少ないのが実情です。つまり、この会社にしかできない、という板金加工はそれほど多くありません。

そうなると単に製品を製造するということだけでなく、「作り方」や「売り方」という点に事業の強みを持つことが大切になります。技術だけを突きつめていっても、「その技術はもう必要ありません」と言われたら、「え?明日から事業をどうしようか……」という状態に陥ってしまいます。

もちろん、ある程度の高みのレベルに対応する加工技術やノウハウを持っていることが前提になりますが、それに加えて、「作り方」や「売り方」によってお客様に喜んでいただける価値を追求すること、そのほうが当社は向いています。

会長:QCD[高品質(Quality)、低コスト(Cost)、納期(Delivery)]という言葉がありますが、最後にサービス(Service)の「S」を加えた「QCDS」という考え方ですね。
かゆいところにも手が届くような生産形態、売り方、買い方、それを当社の強みとして見せていく必要があります。

3代目から4代目へとつなぐ、経営の襷(たすき)

――会長と社長は、普段から経営についてどのようなコミュニケーションをとっているのでしょうか?

社長:たまに会長とは「こう思ってます」「こうします」という話はしますが、会長へ伝わっているのかどうかは分かりません(笑)。
私自身、代替わりした直後は経営の発想にも慣れておらず、経営について具体的に考え始めたのはここ1年のことです。それまでは製造業の枠の中に囚われていたのですが、代表就任後にさまざまな社外の方々と出会ってお話をさせていただくことで、経営者として、この経営資源をどう活かしていくのかを深く考えるようになりました。

――代替わりのときには、事業継承など特別な話をしたのでしょうか?

会長:私は4代目の代表就任にあたっては、息子だから、という息子ありきの代替わりとは考えませんでした。従業員の中に良い人材がいればその人へ任せても良いという姿勢で社内を見渡してみて「この人間に任せよう」と思える人材が、たまたま息子でした。

――どういう点が経営者としてふさわしいと思いましたか?

会長:何ごとも臆せずに捉えて行うという姿勢は、私には真似できません。いまの時代はパソコンやインターネットなど新しい技術が当たり前になり、私の過ごしてきた時代とはまったく違います。
それから経営者というものは、そのポジションに長く居座ってしまったら弊害が出てきます。良い人材がいたら、そのチャンスを逃さずにチェンジしないといけません。私は70歳で代表を交替しようと決めていました。

――代替わりして1年、寂しい想いは少しはありますか?

会長:私が営業担当している昔からのお得意様には、1週間に1回ほどはまだ顔を出すようにはしています。でも、お得意先へ伺うと「顔見せてや」と言われたりしますが、「もうええやろ」と返答しています(笑)。

社長:会社には毎日来ていますが(笑)。

会長:いまは、見積もりを頼まれたり、売上計画を見たり、どういう仕事が来ているか、ということは把握しています。そうしないと昼間からビールを飲んでしまって体に悪い(笑)。

代表取締役社長の竹中雄吾
超精密板金加工のケービックが手がける製品イメージ

3代目から4代目へとつなぐ、経営の襷(たすき)

代表取締役社長の竹中雄吾
超精密板金加工のケービックが手がける製品イメージ

――会長と社長は、普段から経営についてどのようなコミュニケーションをとっているのでしょうか?

社長:たまに会長とは「こう思ってます」「こうします」という話はしますが、会長へ伝わっているのかどうかは分かりません(笑)。
私自身、代替わりした直後は経営の発想にも慣れておらず、経営について具体的に考え始めたのはここ1年のことです。それまでは製造業の枠の中に囚われていたのですが、代表就任後にさまざまな社外の方々と出会ってお話をさせていただくことで、経営者として、この経営資源をどう活かしていくのかを深く考えるようになりました。

――代替わりのときには、事業継承など特別な話をしたのでしょうか?

会長:私は4代目の代表就任にあたっては、息子だから、という息子ありきの代替わりとは考えませんでした。従業員の中に良い人材がいればその人へ任せても良いという姿勢で社内を見渡してみて「この人間に任せよう」と思える人材が、たまたま息子でした。

――どういう点が経営者としてふさわしいと思いましたか?

会長:何ごとも臆せずに捉えて行うという姿勢は、私には真似できません。いまの時代はパソコンやインターネットなど新しい技術が当たり前になり、私の過ごしてきた時代とはまったく違います。
それから経営者というものは、そのポジションに長く居座ってしまったら弊害が出てきます。良い人材がいたら、そのチャンスを逃さずにチェンジしないといけません。私は70歳で代表を交替しようと決めていました。

――代替わりして1年、寂しい想いは少しはありますか?

会長:私が営業担当している昔からのお得意様には、1週間に1回ほどはまだ顔を出すようにはしています。でも、お得意先へ伺うと「顔見せてや」と言われたりしますが、「もうええやろ」と返答しています(笑)。

社長:会社には毎日来ていますが(笑)。

会長:いまは、見積もりを頼まれたり、売上計画を見たり、どういう仕事が来ているか、ということは把握しています。そうしないと昼間からビールを飲んでしまって体に悪い(笑)。

夫婦でゴルフ、子供だけの留守番、家族旅行。そして工場と

トップ対談 会長の竹中次雄
超精密板金のケービックの工場内
トップ対談 代表取締役社長の竹中雄吾

――会長にとって仕事はどのようなものだと考えていますか?

会長:これまで経営してきて、私もこの会社で育ちましたし、家族も会社でご飯を食べさせてもらってきました。その恩義を忘れることはできません。

――昔はやはり働きづめだったのでしょうか?

会長:私が20代30代の頃は、夜中0時を回ってからでないと帰れませんでした。
仕事は1人5役をこなしていました。製造で言えば、曲げ、仕上げ、タップとぜんぶやっていました。現場へ出ないと人も少ないですし、製品も出来上がらないという状況でしたから。

――「お父さんは夜遅くにならないと家に帰ってこない」というイメージですか?

社長:そうですね。ものごころがついた小学校3年生くらいの頃は、夜21時、22時くらいには帰ってきていたように思います。
休みの日は夫婦でゴルフへよく行っていたのですが、留守番を任されるんですね。今日は1,000円で過ごしなさいとお駄賃を渡されたり、レンタルビデオ屋で借りてきたビデオを渡されて、これを観ておいてと言われたり(笑)。

――会長のゴルフはリフレッシュですか!?

会長:ゴルフをはじめたのが家内と同じ時期なんです。2人で会話をしながらであれば、気も遣わず、楽しくコースを回れますので。

社長:私はゴルフは全然しないんです。ゴルフ道具のお下がりは、譲り受けたものがあるんですが。

――プライベートでは親子ですが、会長がアドバイスをしたり仕事の話をしたりもするんですか?

会長:あまりしません。自然体です。

社長:どちらかというと私から、「あれどうや」「これどうや」といろいろ聞いたりしています。家ではあまり会話しないで、会社にいるときのほうが喋りますね。私が考えていることを話したり、聞いたりすることが多いです。

会長:以前、ある知り合いに言われたことがありました。その人は自社の事業継承がうまくできなかったこともあり、「竹中さん、あんた幸せやで」「絶対に次の世代を担う人に怒ったりしたらあかんで」「喉元まで言いたいことが出てもあかんで」と重ね重ね言われて(笑)、そのアドバイスを大切にしてきました。
「わしの時代はこうだった」と言っても、「もうあんたの時代じゃないよ」と。新しい時代には、次の世代の考えで動いていくことが大事なんです。

――仕事を離れたところで、家族のエピソードをひとつ教えてください。

社長:子供の頃、定期的に旅行へ連れて行ってもらったなぁ、という記憶が強くあります。私がいま同じようなことができていないんですが……(苦笑)。
改めて振り返ると、すごいな、と思います。当時はいまの時代よりも、宿を探すにしても不便な時代です。いまならインターネットを検索すればパッと予約サイトも出てきますが、段取りも大変なはずです。そのことは純粋にすごいと思いますし、振り返ってみて、ありがたかったなと感謝しています。

また、仕事に関連してしまいますが、昔から会社へ連れてきてもらって工場が身近な存在だったことですね。
工場の匂い、板金の製品。幼い頃から馴染みがあって、それがあったからこそ、いまの私があるように思います。

知恵と工夫で、お客様の困りごとを解決し続ける

――いろいろ話を聞いてきましたが、最後にケービックの未来へ向けての想いを聞かせてください。

会長:私はご相談を受けた仕事を拒否するのは嫌なタイプなんですね。できるものは全部、引き受けて仕事にするという姿勢でこれまでやってきました。短時間での対応が求められる見積もりにも鍛えられました。

難しい仕事でも困ったときには知恵が出ます。「火事場のクソ力」です。コストや品質を考えて一見、大変な仕事でも、知恵を出して工夫をすれば、利益を出す方法が見つけられます。
考えて、工夫して、モノを作る。そして、お客様のご要望に応える。
厳しい条件でも、挑戦して挑んでいく姿勢は、いまもこれからも変わらないでしょう。

社長:私も果敢に挑戦していきます。守りに入ってしまっては、負けないだけで勝てませんから。現在、業務改善の取り組みも行っていて成果も出始めていますが、まだ第1歩を踏み出したばかりです。

挑戦する一方で、変えてはいけないことは、会長の話にもありましたがお客様が困っているときの対応です。
会長が40年前にオムロン様に「なんとかできませんか?」と相談されて仕事を引き受けたように、お客様の困りごとを聞いて、解決し続けてきたからこそ、当社が存在しています。この事業方針は、これからも変えてはいけないところです。

お客様の困りごとを解決し続けること。そして挑戦すること。
それが当社が未来へ継承していく、創業からの精神です。

※この対談は2019年6月の取材に基づいています。

超精密板金のケービックの工場内

知恵と工夫で、お客様の困りごとを解決し続ける

超精密板金のケービックの工場内

――いろいろ話を聞いてきましたが、最後にケービックの未来へ向けての想いを聞かせてください。

会長:私はご相談を受けた仕事を拒否するのは嫌なタイプなんですね。できるものは全部、引き受けて仕事にするという姿勢でこれまでやってきました。短時間での対応が求められる見積もりにも鍛えられました。

難しい仕事でも困ったときには知恵が出ます。「火事場のクソ力」です。コストや品質を考えて一見、大変な仕事でも、知恵を出して工夫をすれば、利益を出す方法が見つけられます。
考えて、工夫して、モノを作る。そして、お客様のご要望に応える。
厳しい条件でも、挑戦して挑んでいく姿勢は、いまもこれからも変わらないでしょう。

社長:私も果敢に挑戦していきます。守りに入ってしまっては、負けないだけで勝てませんから。現在、業務改善の取り組みも行っていて成果も出始めていますが、まだ第1歩を踏み出したばかりです。

挑戦する一方で、変えてはいけないことは、会長の話にもありましたがお客様が困っているときの対応です。
会長が40年前にオムロン様に「なんとかできませんか?」と相談されて仕事を引き受けたように、お客様の困りごとを聞いて、解決し続けてきたからこそ、当社が存在しています。この事業方針は、これからも変えてはいけないところです。

お客様の困りごとを解決し続けること。そして挑戦すること。
それが当社が未来へ継承していく、創業からの精神です。

※この対談は2019年6月の取材に基づいています。

お問い合わせ
Contact

精密板金加工の無料お見積り依頼、工場見学のご相談、採用情報についてのお問い合わせを承っています。

お問い合わせ
Contact

精密板金加工の無料お見積り依頼、工場見学のご相談、採用情報についてのお問い合わせを承っています。

メニュー